幼年期と闘病時代
巖は1903年、奈良県に4人兄弟の長男として生まれました。厳格な父に育てられ、中学を卒業後、現在の大阪大学の前身である大阪薬学専門学校へ入学。卒業後は薬局経営を経て専門学校の助手に就任するものの24歳の時に喀血。それ以来6年ものあいだ入退院を繰り返し、闘病生活を続けました。その後、療養費もままならない苦しい日々を過ごしながらも、奇跡的に病からの回復を遂げました。
事業を立ち上げ、ラッカーの製造を開始
結核を克服するまだ数年前、巖は治療費や生活費を稼ぐため職探しをするものの、不況の真っただなかだったこともあり就職を断念。自ら事業を起こし、うすめ液用のシンナーを製造。一人で販売を始めました。その後取引先の勧めもあり、当時は米国からの輸入一辺倒であった硝化綿ラッカーの製造に着手。1930年には自身の名前である「巖」になぞらえた「ロック」を商標として登録しています。さらに大阪市に約15坪の納屋を借り受け、製造の拠点に。この時期に自動車用塗料の製造を開始したことが、今日のロックペイントの発展を決定づけたといえます。
戦争による廃業、そして再興へ
1936年ごろには、ロックペイントの創成期を支えた従業員らが続々と入社しています。1937年には共同出資による精化塗料株式会社を設立するも、2年で辞任。その後持ち株をすべて売却して、1940年に現在の本社となる西淀川区姫島に557坪の土地を購入し、28坪の工場をはじめ倉庫や宿舎兼事務所を建てました。
まだ社員の少なかったころには、巖の自宅へ社員を招いて食卓を囲むなど、当時はまるで大きな家族のような会社でした。
事業は順調でしたが、第二次世界大戦下の1943年、第二次企業整備令により廃業を余儀なくされました。1945年に終戦を迎え、工場は焼け残ったものの再開の目途が立ったのは1947年。個人経営にて事業を再開すると、出征などで散り散りになっていた社員が少しずつ戻り始め、戦後の混乱や物資不足に苦労しながらも、ようやくラッカー性塗料の製造を再開できるようになったのです。
漆黒の「ゼットブラック」誕生
当時は、竹製の櫂を使って手作業でラッカーを調合していたため日産量はたったの30缶でした。
1948年、モノづくりへの情熱と「世に送り出す品には、最も優れた品質を」の信念のもと、ついに漆黒のラッカー「ゼットブラック」が完成。その美しいまでの黒色について巖は、「分子のひとつひとつが完全に分散されたときの黒ラッカーの塗面は、えも言われぬ深みのある黒さで、その表面には、全くじいっと黒さが笑みをたたえているようである」と語っています。業界では「輸入品より凄い黒がある」とその品質の高さが評判を呼び、生産が追い付かないほどの売れ行きに。四国や九州など遠方からリュックサックを背負って買いに来られるお客さまが列をなし、断るのに困ったというエピソードが残されています。
品質への拘り、真の技術探求者の一面をうかがわせる親しみと好感を抱くエピソードです。
当時は「塗料」と名のつく品は少なく、まして車両用塗料は皆無に等しく塗料なら何でも売れた時代でした。ある販売店が鈑金塗装業者から「大阪の“ロックのブラック”は手に入らないか?」と注文を受け、さっそくロックペイントに問い合わせると2~3日後に「ゼットブラック」が店に届きました。鈑金塗装業者に持参し、試し塗りをすると、その黒は未だかつて見たことのない黒だったため、見入る面々。「これが“ロックのブラック”か!」「カラスの濡れ羽色のような黒だ!」と驚嘆の声が上がったと伝えられています。
こうして社員が心血を注いでつくりあげた「ゼットブラック」は、ロックペイントの名を広く世に知らしめ、今ある当社の基礎をつくりあげました。
さらに1953年には硝化綿チップの製造開発に成功。カーボンブラックの分散に画期的な進歩をもたらし、自動車用ラッカー塗料の発展へと繋がりました。後に巖は「このラッカーチップの開発は、ラッカーメーカーとして生き残れた一番大きな要因であった」と語っています。
1954年、巖は渡米し、いくつものラッカーの製造現場を見学。米国の最先端技術を参考にしながら、当時の社員たちと研究を重ね、次々と新色を発売。多彩な自動車用塗料の調色技術に革新をもたらしました。
事業が拡大してからも、巖は最前線で塗料の研究に取り組み、数々の新製品を世に生み出しました。さらに、苦労して開発した技術を惜しみなく開放し、業界の発展に力を注いだ人物としてもその名が知られています。こうした功績により、1965年4月には藍綬褒章を、1973年6月には勲四等瑞宝章を受章。一代でロックペイントを日本有数の塗料メーカーに育て上げた巖の人生は、まさに研究とモノづくりにささげた生涯でした。